みどころ・展示構成
みどころ・展示構成
宮城県美術館のリニューアル
仙台市中心部の西、杜の都を象徴する青葉山と広瀬川に囲まれて、仙台城址、東北大学、仙台市博物館などを擁する文教地区があります。1981年にこの地に開館した宮城県美術館は、コレクションに関係の深い宮城・東北の美術、日本の近現代美術、ドイツ表現主義に関するものをはじめ、幅広い展覧会を開催してきました。
また早くから教育普及事業を重視し、創作室の開放や様々なプログラムを通じて、鑑賞と創作の両面から美術に触れられる場を目指してきました。1990年の佐藤忠良記念館の開館以降は、周囲の庭に彫刻作品が多数設置され、豊かな自然環境とあわせて憩いの空間となっています。
現在当館では大規模改修工事を実施しています。竣工40年を超えた本館の改修に加え、コレクションの充実に対応して収蔵庫と展示室を増設します。さらに、子どもの美術体験の拠点となる「キッズ・スタジオ」、情報の発信地となる「情報・交流ラウンジ」、作品の収蔵環境に接して文化財保存の意義を学ぶ「見える収蔵庫」(いずれも仮称)を新設します。
長期休館中も、本展覧会を含む各種事業により発信を続けています。リニューアルした美術館の姿にぜひご期待ください。
宮城県美術館の開館から百年前の1881(明治14)年、高橋由一は山形県令三島通庸の委嘱を受け、山形県下の新道開発の記録画等を描くために東北を訪れました。その際、由一は宮城県からの依頼で、《宮城県庁門前図》(no.1)や《松島五大堂図》(no.2)等の宮城県を代表する風景を、油彩画による記録画として制作しました。
本展覧会ではこの他、近代洋画黎明期の美術として、由一が西洋の技法である油彩画を学んだ、イギリス人の報道画家ワーグマンの作品や、日本初の官立の工部美術学校で西洋画を学んだ、小山正太郎等の作品を展示するともに、明治中期にフランスの外光表現をもたらした黒田清輝に学んだ、宮城県出身の画家、渡辺亮輔の作品も展示し、明治期の洋画の展開を紹介します。
高橋 由一《宮城県庁門前図》1881年
1910(明治43)年、美術の動向に大きな影響を及ぼす、二つの象徴的な出来事がありました。一つは文芸誌『白樺』の創刊であり、もう一つは高村光太郎による『スバル』誌上での「緑色の太陽」の発表でした。『白樺』にはセザンヌやゴッホ等の美術が紹介されましたが、明治も終わり頃になると、西洋の美術書や雑誌も発刊とほぼ同時に輸入されるようになり、西洋美術が次々と紹介されるようになりました。これらを通じて画家たちは、ポスト印象派やキュビスム、未来派、表現主義等の理論やスタイルを貪欲に吸収していきました。芸術表現の拡大と、太陽を緑色に描いてもよいというような、芸術家の自我を開放する思想の広まりを背景に、画家たちは「個」の表現を追求していったのです。
萬鉄五郎や岸田劉生、神原泰等の作品には、これらの新しい動向が見て取れます。そうしたなか、実際に海外に留学する画家も増加し、梅原龍三郎や安井曽太郎は、西洋での経験を踏まえて、帰国後、日本人の感性や美意識に根差した油彩画表現を追求し、昭和の美術界をリードする存在ともなりました。
萬 鉄五郎《郊外風景》1918年頃
昭和期には日本の洋画も成熟し、フォーヴィスムやシュルレアリスム、抽象画など様々な画風が展開され、日本独自の油彩画も追求されました。一方で、戦争や、都市化に伴う社会問題などが、画家たちにも大きな影響を与えました。松本竣介の《画家の像》(no.28)は戦時下の自画像であり、画家としての覚悟が感じられる、昭和美術の代表作です。大沼かねよや曹良奎は、社会的な主題を通して人間を見つめる作品を描きました。
戦後は美術の概念がさらに多様化し、新たな技法や材料も使われました。山口勝弘はガラスを用い、見る角度によって様相が変化する作品を、村上善男は注射針などを用いたアッサンブラージュを発表しました。1954(昭和29)年に結成された具体美術協会では、天井から垂らした紐にぶら下がり、床に置いたカンヴァスの上を滑るように足で描いた行為の痕跡を作品とした白髪一雄、絵具の流れる様を表現に取り入れた元永定正、対照的に、絵具の物質感や行為の偶然性を極力排除し、自らの手で円を描くことでオリジナリティーを示した吉原治良などの個性的な取組みが試みられました。
松本 竣介《画家の像》1941年
ロシア出身のカンディンスキーとスイス出身のクレーは、共に19世紀末に「芸術の都」ミュンヘンに渡りました。初期のカンディンスキーは風景の写生に熱心に取り組み、またロシアやヨーロッパの中世に思いをはせた空想上の光景を描きました。クレーは天性のユーモアを乗せた線描による、エッチングの作品群で展覧会にデビューしました。
20世紀初頭のドイツ語圏では、内面から溢れ出るものを表現しようとする画家が現れました。ドレスデンのグループ「ブリュッケ」のメンバーは、強烈な色づかいの油彩画や、素朴で力強い造形の木版画を制作しました。一方、装飾的様式が主流だったウィーンには、人間性を過激なまでに露わに描くココシュカやシーレが登場しました。
色や形のもつ「内なる響き」が絵画の本質だと考えたカンディンスキーは、やがて抽象絵画の扉を開きます。1911年末に「青騎士」の発足を主導し、同じ頃にクレーと知り合いました。しかし第一次世界大戦の勃発により帰国を余儀なくされ、「青騎士」の活動は終わりを迎えました。
ヴァシリー・カンディンスキー《「E.R.キャンベルのための壁画No.4」の習作(カーニバル・冬)》1914年
第一次世界大戦は多くの画家の運命を翻弄しました。戦後の恐慌と都市への人口流入、社会的矛盾の顕在化は、社会の断面を主題とする作品の登場を促しました。そして合理主義や近代科学への信仰が崩れ、幻想性や神秘性への希求が高まる中で、クレーの芸術が徐々に評価を高めました。
1919年にヴァイマールに造形教育機関バウハウスが開校すると、クレーは翌年に指導者として招かれました。ロシアの美術行政に従事していたカンディンスキーも誘いを受け、ドイツに戻って1922年に着任。二人は再び親密な友情を築き、1925年にバウハウスがデッサウに移ると、同じ宿舎で暮らしました。教育者として自らの美術理論を体系化した成果は作品にも現れており、カンディンスキーは幾何学的形体を中心に画面を構成する様式を確立しました。
バウハウスはナチスの圧力により1933年に閉校。二人を含む多くの前衛画家の作品が退廃芸術と見なされ、ドイツでの活動が難しくなりました。それでも、カンディンスキーはパリ、クレーはベルンに拠点を移し、晩年も旺盛な制作を続けました。
パウル・クレー《力学値のつりあい》1935年